明治九谷の特色1.多くの名工を育んだ明治九谷

明治九谷(ほぼ明治時代に制作された優品の九谷焼)は日本の磁器の歴史に大きな足跡を残し、その明治九谷を制作した陶工らも、その制作を重ねるうちに、優れた九谷焼を制作した名工として九谷焼の歴史に刻まれました。このことから、明治期に誕生した多くの名工は明治九谷に育まれたといえます。

明治期の九谷焼が優れていることが欧米から注目されたのは、日本政府が、厳選された日本各地の工芸品をウイーン(1873 年)の万国博覧会に出品したときでした。出品されると、九谷焼は“ジャパンクタニ”と称賛され、さらに、フィラデルフィア(1876年)、パリ(1878 年)の万国博覧会に出品された制作品は、欧米からの要望で、より日本画的な装飾性の高い壺、香炉、大皿などの美術品からテーブルウエアなどの日常品まで多岐にわたりました。

明治初期の九谷焼には欧米から日本画的で芸術的な高い表現力が求められましたが、その需要に応えたのは、いわゆる一介の職人たちではなく、江戸末期の再興九谷の諸窯に来歴をもつ陶工やその末裔たちでした。彼らのほとんどは、若いときに狩野派などの絵画、あるいは明治期に誕生した日本画などを学んでから、石川県内の名窯において磁器の陶画を修業したので、日本画のような図案や文様を素地に着画する技量を持っていました。

こうして、陶器商人が取り扱った一部の優れた輸出九谷を含め、優れた九谷焼を制作した陶工らは制作を重ねるうちに、次々に優れた様々な画風や技法を生み出し、国の内外で高い評価を受けました。その陶工らは高い評価に相応しく、名工と称されるようになりました。この時期の明治九谷は正に百花繚乱の様相を呈しました。ですから、明治期に誕生した多くの名工は、自ら制作した明治九谷に育まれたと考えられます。

このウエブサイトに掲載する作品のいくつかは、名工の高い表現力と技術力によって制作された作品であり、名品と呼べるに相応しい作品です。参照;コレクション ③ 明治九谷 窯元・名工・陶器商人