明治九谷の特色4.角「福」から「大日本九谷」ブランド

江戸期の九谷焼に書き入れられた銘は、角または二重角に「福」の字であることが多く、それらには吉祥の意味が込められました。ですから、名工らが活躍したことが判明している再興九谷にあっても陶画工の名前を書き入れられることはなかったのです。

しかし、幕末から明治初期にかけ、銘を書き入れた陶画工が現れました。それが九谷庄三でした。庄三の銘は幕末に「庄七」(庄三の幼名)だけか、角「福」と「庄七」の組み合わせから始まり、角「福」と「庄三」の組み合わせ、さらに角「九谷」と「庄三(小文字)」(九谷焼の庄三という意味)に変わりました。

明治期に、彩色金襴の手法を完成させた庄三はその名声が高まると、「九谷庄三」(一行書き)の銘が一時書き入れられましたが、そうした作品は多くなかったのです。そのころから、庄三の作品の多くが庄三監修のもと庄三工房で作られる作品が多くなり、銘に「九谷/庄三」(/は二行書きを意味します)を使いました。このような庄三の銘を周囲の名工らが見て、彼らは「九谷/(陶画工の名前)」の形式に追従しました。

一方で、多くの輸出九谷では、「大日本九谷」が書き入れられました。例えば、明治9年(1876)のフィラデルフィア万国博覧会に出品された春名繁春の花瓶の銘は「明治九年費府博覧会大日本九谷春名繁春製」と書き入れられました。その頃から、原産地を表示するために輸出九谷には「大日本九谷/(製造者または陶画工名)」が入れられました。円中孫平ら陶器商人は“ジャパンクタニ”をイメージさせる、「大日本九谷」をブランドとして定着させようとしました。

その後、国内では国名を省略して「九谷」だけの銘がブランド名として定着し、稀に名工の作品には「九谷/(陶画工の名前)」が書き入れられました。「加賀国」「於九谷」も同じ意味であったと思われます。

ただ、規模の大きな陶器商人が取り扱う製品には品質を保証するかのように“ブランド名”としての陶器商人の名前が書き入れられました。「鏑木製」、「綿埜製」、「織田製」「谷口造」などが書き入れられた製品は“ブランド力”によって国内外で高い名声を得ました。