明治九谷の特色5.産業九谷の分業体制

明治期に本格的になった九谷焼の生産と販売は、素地の窯元、絵付工房(工場)、陶器商人などが協力するという分業体制に支えられ、国内外からの需要に積極的に応えることができました。特に、輸出九谷の中核となった「庄三風」の九谷焼、あるいは華麗で精緻な金沢九谷は“ジャパンクタニ”と称され、欧米に大量に輸出されました。この分業体制によって明治期の日本の一大輸出産業が支えられました。

九谷庄三がこの分業体制を作ったといわれます。能美郡寺井村に工房を開き、本焼の窯を持たずに小野窯(ここで修業したことがある)などから買入れた素地に着画することを専業としました。その後、良質の素地を大量に供給することのできる窯元も増え、また工房には多少絵心のある工人が大勢集まり、門人も庄三を補助するまでに成長しました。そうして、庄三監修の下で庄三風の九谷焼が大量に生産されました。この分業による生産方式は能美の他の村(例えば、佐野九谷)にも広がり、能美地方における九谷焼の生産を支えました。さらに、能美では多くの陶器商人が出現し、神戸、横浜などに支店を設けるなど、販路を拡充したので、これもまた輸出九谷を支える分業であったといえます。

この産業九谷の分業体制は金沢にも広がり、資金を持ち、欧米の嗜好を捉えていた陶器商人は売るだけでなく、良質な素地を買ってきて優れた陶画工に絵付を依頼し、その作品を輸出しました。こうした陶器商人の手によって金沢で制作された九谷焼(金沢九谷と呼ぶ)は、欧米で評判となり、次第に能美九谷を超えるまでになり、やがて輸出九谷の中心となりました。

ただ、明治30年代に輸出が衰微したとき、九谷焼の関連業界は国内向けに器種や画風を変えることによって、再び産業九谷は盛り返し、受け継がれていきました。産業九谷全般についていえば、産業九谷は規模を縮小しながらも、芸術的な制作品と国内の一般向け生活用品とに二分する形で今に至っています。