明治九谷の特色6.青九谷の再興

初代 松本佐吉 倣古九谷徳利二対

明治22 年(1889)頃、能美地方での赤絵の技術が最高の域に達しましたが、一方で、その粗製品が横行し始め、あるいは赤九谷が飽きられるという情況が現れました。そうした状況を見ていた松本佐平は、明治26年(1893)頃に赤九谷と青九谷(表面の模様に緑色を多く使った九谷焼)の双方を融合した「松雲堂風」という画風に至ったといわれます。その後、陶画工の中に、古九谷や吉田屋窯を思慕して、青九谷を追及する陶画工が現れました。松本佐平が「松雲堂風」という画風を創ったことで、青九谷を出現させるきっかけを作りました。明治期の青九谷の最初の名工として、初代徳田八十吉と初代松本佐吉がいました。

松本佐平の「松雲堂風」の特色は、図案を素地の全面に描く点にあり、より絵画的な作風になったことでした。図案を描くための十分な余白を確保し、白い器面に意匠を絵付しました。その意匠の多くは、色絵(九谷五彩よりも多彩な絵の具)で描かれた花鳥図で、青九谷で従来から用いられた和絵の具だけでなく、和絵の具と洋絵の具の両方を用いたので、これまでの青九谷に比べ、全体に釉薬が薄く、色数も多くなりました。

初代徳田八十吉は、松本佐平の義弟でしたが、狩野派画家 荒木探令から絵画を、佐平から陶画を学び、古九谷と吉田屋窯の作風の再現に取組みました。若い頃から釉薬の改良と創製に腐心し、独自の彩釉を発明してそれを「深厚釉」と名付けました。佐平の弟子に初代浅蔵五十吉がいました。

初代 松本佐吉は、明治41年(1908)に佐平の養子になったことで、絵付工場「松雲堂」を引き継ぎましたが、佐吉は、九谷五彩(青,黄,紺青,紫,赤)を駆使して青九谷を制作しました。彼は青九谷の美しさを表現し、古九谷、吉田屋窯などの絵柄と色合いの再現に情熱を注ぎこみました。このため、後に、初代 佐吉は青九谷の名工と呼ばれるようになりました。(参照;初代 松本佐吉 対の瓢形徳利 二様